ヴィヴィアン・リー バイオグラフィー [1913][1920][1926][1929][1931][1932][1933][1934 探しだされるもの][1935 田舎紳士 紳士たちの協定 見つめて笑え]
[1936 無敵艦隊 間謀 茶碗の中の嵐 最初の者と最後の者 21日間 響け凱歌][1937 セント・マーティンの小径][1938]
[1939 Guide Dogs for Blind 風と共に去りぬ][1940 哀愁][1941 美女ありき][1943][1944 シーザーとクレオパトラ][1945][1947 アンナ・カレニナ][1948]
[1950 欲望という名の電車][1952][1953][1954 愛情は深い海の如く][1956][1957][1958][1959][1960][1961 ローマの哀愁][1963][1965 愚か者の船]
[1966][1967][1968][追記] (1913.11.5 -1967.7.7)(インド、ダージリン(別荘)生まれ)Vivien Leigh Top
1913 11月5日夜、カンチェンジュンガとエヴェレストの雪に覆われた頂きに太陽が沈み、ダージリン(その頃イギリスの統治下)の街に灯りがつき始めたとき生れた。
父アーネスト・リチャード・ハートレイ(ロンドンの株式市場で名を知られた金融業者でフランス系のイギリス人)が、夏のさかりに避暑のために借りたダージリンの別荘だった。
本名ヴィヴィアン・メアリー・ハー トレイ(Vivian Mary Hartley)。母ガートルー ド(アイルランド系のカソリック教徒(インド、ダージリン生まれという説も))。
当時、父は交換仲買人としてカルカッタに仕事の本拠を置いていた。
ヴィヴィアンは一人娘で、学齢に達するまでエベレストをふり仰ぐダージリンの家で育った。
生活は豊かで、父はアマチュア劇団の俳優経験があり、母は音楽を愛して、3才のヴィヴィアンを児童コンサートに出場させたりした。
読書の習慣も早くからつき、6才の頃にはすでにギリシャ神話を暗誦したという。
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1920 9月、ロンドン校外ローハンプトン、セイクリッド・ハード修道院寄宿学校へ入学(6才10ヶ月(5才説も)、この学校に入学を許される最も年少の子だった)。
教育を受けるのは故国にかぎるということだった。
ヴィヴィアンが入学して間もないころ、もっとも美しい娘の投票が行われた。
ヴィヴィアンが1位、モーリン・オサリヴァン(将来の映画スター)が2位だった。
学校の演劇発表会で『真夏の夜の夢』の妖精パックの役を与えられた。
この役が大変気に入って、将来、女優になろうと決心したという。
寄宿学校では、英語、算数、歴史、フランス語、と宗教教育があった。
ヴィヴィアンはどの学科にも熱心で、学期末にはいつも表彰された。
それに、バレエ、パントマイム、ピアノ、バイオリン、チェロなどのレッスンを受け、オーケストラに入っていた。
8才の夏、両親と一緒にシェークスピア劇『ハムレット』を見てオフェリアに魅せられ、「舞台女優になりたい」と思い始めた。
ヴィヴィアンの日常の生活はきわめてきちんとしていた。ヴィヴィアンの部屋はいつも整頓されていて、ノートや書類はきちんと片付けてあった。
ヴィヴィアンは属しているどのグループでもリーダーで、優れた組織力を持っていた。
しかし、院長は二人のヴィヴィアンがいると考えていた。もう一人のヴィヴィアンはしばしば姿をくらませて、湖のほとりに独りでいることがあった。
うちに秘めた感情は独りだけになるまで心の中に固くしまわれていた。
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1926 両親と共に長期ヨーロッパ旅行をして見聞を広め、各地の語学校でフランス語、イタリア語、ドイツ語を学ぶ。
14才でイタリアのサン・レモ、その後パリ、ドイツのババリアで、上流家庭の子女専門の教育と躾を受ける。
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1929 パリ、オートゥイユ近郊の私立学校へ入学。
演劇の勉強をする。
小学生の頃から演劇に憧れていたヴィヴィアンは、コメディ・フランセーズの女優アントワーヌ女史につき、ラシーヌの戯曲をテキストに基礎的演技を学んだ。
ヴィヴィアンはローレンス・オリヴィエを『伝記』の リチャード・カートの役で初めて見た。
この時のことをヴィヴィアンは「彼の才能に魅せられただけでなく、いままで経験したことのなかった性的欲望を彼によって惹き起された」と語っている。
ヴィヴィアンはワグナーのドラマチックなオペラが特に好きだった。
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1931 復活祭の日、ヴィヴィアンは18才で学業を終了した。
D・H・ローレンスの「チャタレー夫人の恋人」が出版され、ヴィヴィアンはむさぼるように読了。
ヴィヴィアンの美貌は益々輝きを増し、ロマンチックな女性になった。
女優志望の意志も固くなったが、両親はそれを危惧して結婚することを薦めた。
しかし、ヴィヴィアンがまったく関心を示さぬため、父は1年間限りの条件で、ロンドン王立演劇学校(RADA)へ入ることを認める。
ヴィヴィアンはこの頃、レスリー・ハワードのファンだった。
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1932 父との約束で結婚を決意。
女友達から紹介された青年弁護士ハーバート・リー・ホルマンのプロポーズを受け入れ、知り合って半年後の12月20日、ロンドン、セント・ジェームズ寺院で結婚式を挙げる。(ヴィヴィアンは19才であった)
因習の強いイギリスの旧家で主婦として暮らすことになる。
しかし演劇への情熱は抑え難く、3ヶ月後には夫の許しを得て再び王立演劇学校へ通う。
間もなく試演会の舞台に立ったが、このとき妊娠していることが分かりやむなく家庭へ戻った。
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1933 10月12日、女児スザンヌを出産。(スザンヌには後に3人子供が生まれる)
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1934 映画『探しだされるもの』Things Are Looking upに端役で映画デビー。
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1935 ヴィヴィアン・リーの芸名が決まる。(夫の名をひとつとり、自分の名の綴りを一字かえている)
『田舎紳士』The Village Squir(ヒロインのタイピスト)、『紳士たちの協定』Gentlemen's Agreement、『見つめて笑え』Looking up and Laughと 3本の映画に出演した。
『探しだされるもの』の端役で映画デビーして、続いて3本の映画に出演し、『緑の飾り帯』で初舞台。
初舞台『緑の飾り帯』(若妻ジュスタ役)の演技が高く評価された。
タイムズ紙の批評家が「緻密でしかも軽妙である」と認める。
『緑の飾り帯』の演技がウエストエンドの一流プロデューサー、シドニー・キャロルの目にとまり、その年5月、アンバサダース劇場で華やかに幕を開けた『美徳の仮面』に主演するという異例の幸運をつかむ。
キャロルは、ヴィヴィアンを見て、その個性的魅力を賞揚し「彼女の清らかな美しさは、無垢な若さと、天性の気品、知性に裏づけられた価値がある。キャリアの不足など、その美点の前では取るに足りない」とまで言っている。彼はロンドン演劇界でも、新人をスターに育てる手腕をうたわれた存在で、ヴィヴィアンの成功には確信を持っていた。(草鹿宏著『永遠のスカーレット・オハラ ヴィヴィアン・リー物語』 参考)
アンバサダース劇場の『美徳の仮面』の主役を演ずる。
アン・エドワーズ著に"5月15日、客席が暗くなって、幕が上がった。ヴィヴィアンが最初に登場した瞬間から、アレキサンダー・コルダも他の観客たちも心を奪われた。ヴィヴィアンの身にそなわった魅力が魔法のように観客をつつんだ。
舞台で何が起っていようと、観客は彼女から目を離すことができなかった。ライトと衣装が彼女の古典的な長い頸と象牙のように白い肌と完璧な顔をきわ立たせて、静止しているときはフィレンツェ派の絵画のように見えた"と記されている。
オリヴィエは「私がこの想像を絶するほどの驚くべき美 の所有者を初めて目にした」のが、この時だったと語っている。
そして、ヴィヴィアンのことを「魔法のようなその容貌は別にしても、彼女は美しい姿態をもっていた、その首はほとんど頭を支えきれないのではないかと思われるほどか弱く見え、それをのせているのは驚きの感覚をもって、素晴らしい技巧を殆ど 偶然のようなものをもってであった。
彼女はほかにもまだなにかをもっていた、私がかって出会ったこともないほどの人の心をかき乱すような魅力を。彼女の熱烈な賛美者たちの軍団を奴隷と化さしめたのも、その不思議な感動的な威厳の火花のせいだったかもしれない」と語っている。
新聞の見出しは「ヴィヴィアン・リー、新作の舞台で光る。若い女優、激賞をうける。この女優は大きな発見。新スター、ロンドンを征服」だった。
ギルガットの演出で、オックスフォード大学演劇協会が上演した『リチャード三世』(王妃役)、ヒズ・マジェスティ劇場の『陽気な偽善者』、リージェント・パーク野外公演の『ヘンリー八世』と舞台女優としての実績を積み上げて行った。
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1936 ロンドン・フィルムでウイリアム・K・ハワード 監督『無敵艦隊』Fire Over England[写真1]に出演契約。
ローレンス・オリヴィエ(オールド・ヴィック座の新鋭として活躍していた)と初共演する。
バーチェット・グリーンにあるオリヴィエ邸に招待される。
3ケ月の撮影期間中、オリヴィエから多くのものを学んだヴィヴィアンは、激しい恋におちる。
エドワーズ著は"ヴィヴィアンはいつも生き生きとして いて、何をしでかすか、予想がつかなかった。
彼女はユーモアにとみ、大胆で、情熱的で、同時に思慮深く、情愛が深く、思いやりがあった。
彼女はオリヴィエに、彼が彼女の世界のすべてで、彼女はオリヴィエのために生きているのだ、と感じさせた。
それでいて、彼が知っている誰よりも知性的で、彼よりはるかに本を読んでいた。
そして、世界で最も美しい女の一人であることは間違いがなかった"と。
ヴィヴィアンはこの頃、ショーとシェークスピア、伝記 と美術史、ローレンス、ルイス、ジョイスをむさぼり読んだ。
そして、アメリカのベストセラー『風と共に去りぬ』に心を奪われ、スカーレット・オハラに惹きつけられた。
ヴィクター・サヴィル監督スパイ映画『間謀』Dark Journey(コンラート・ファイト共演)、
『茶碗の中の嵐』Storm in a Teacupに主演。
『最初の者と最後の者』では、オリヴィエと再度共演した。
デンマークのクロンボルグ城で『ハムレット』[写真1]が上演され、オリヴィエはヴィヴィアンをオフェリアに強く推して、大成功をおさめる。
大舞台の観客は、オリヴィエの完璧な演技と、ヴィヴィアンのみずみずしい美しさに恍惚となった。そして一座の者すべてが、ふたりの愛が舞台を成功に導いたことを認めたのである。
二人の愛は決定的となり、ヴィヴィアンとオリヴィエは、決断を迫られていた。もはやふたりが離れて暮らすことは出来なかった。ヴィヴィアンは夫のリー・ホルマンに、オリヴィエは妻のジル・エスモンドに、真実を打ち明けねばならなかった。
ヴィヴィアンの娘スザンヌは、まもなく4才で、オリヴィエの妻は数週間前に男の子を出産していた。何の憎しみもなしに、ふたりはその家庭を捨てる決意をする。
「ローレンスへの愛は動かしがたいものだったのに、私は深い悲しみに身を裂かれるようでした。この私と結婚しなかったら、ホルマンが傷つくこともなかったでしょう。彼は寛大な夫でした。妻である私が望むままに、女優を続けることを許し、自分の感情を抑えていたのです。彼の優しさは、一層、私を苦しめました。ほんとうは彼が何を欲しているか、その心にどんな葛藤があるかを知っていたからです。私は罪の意識にまみれました。けれども、ふたりが全く違う世界に属する人間だということは、どうにもならない現実でした。
夫も不幸な予感を抱いていたのです。私たちが『ハムレット』の上演でデンマークへ旅立ったときから、彼は破滅の淵をのぞき込んでいたのかもしれません。私がローレンスへの愛を告白したとき、彼は無言でこみあげる感情に耐え、私を責めようとはしませんでした。そのときの沈黙が、どれほど重く、どれほど悲痛なものであったか。私は神の裁きを受ける小羊でした。道に迷い、風雨にさらされ、永劫に消えぬ苦しみを背負ってもなお、私とローレンスには絶ちがたい愛がありました。
最後の朝の光景が、まぶたのうらにやきついています。私たちはふだんと変わりない、簡単な朝食をとりました。窓から食堂にうすら日が差し込み、庭木の梢がさわさわと風に揺れて、秋の気配を感じさせていました。うつろなほど静かな朝でした。でもスザンヌは、いつもと違う何かを感じたのでしょうか。壊れたお人形のことや、道で見た捨て犬のことをしきりに話したがって、私と夫にかわるがわる質問するのです。私は肉親の絆を恐れました。
その日、夫が法律事務所から帰宅する前に、私は身ひとつで家を出ました。あらかじめ母には事情を打ち明け、スザンヌを預ってもらったのです。周囲のどんな静止も反対も、覚悟の上でした。私には真実の愛だけが必要だったのです」(草鹿宏著『永遠のスカーレット・オハラ ヴィヴィアン・リー物語』より 抜粋)
ヴィヴィアンはロンドンへ帰るとスザンヌを母に預けて夫と別居し、オリヴィエも女優の妻ジル・エスモンドと別居し、ヴィヴィアンとベネチアへかりそめの新婚旅行に立った。
ベイジル・ディーン監督『21日間』21Days[写真1]、
MGMがイギリスのマイケル・バルコン・プロで撮ったジャック・コンウエー監督の学生劇『響け凱歌』A Yank at Oxford(ロバート・テイラー、モーリン・オザリバン共演)に出演(浮気な人妻役)。
暮れにはタイロン・ガスリー演出『真夏の 夜の夢』(タイタニア役)で舞台に立ち魅惑的に演じる。
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1937 ティム・ホイーラン監督『セント・マーティンの小径』St. Martin's Lane(The Sidewalks of London)[写真1][写真2][写真3]でチャールズ・ロートンと共演。
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